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Page No.25
◆ 変な趣味とクオリア ◆
E026 掲載 2007/9/21
クオリアという言葉があります。短調の音楽を聴くと「哀愁」というクオリア(意識でしょうか、それとも感覚でしょうか、ウ〜ン心的変化が近いかな?)が心の中に現れます。短調の音楽が耳に入ってから脳の関連する部分でいろいろな化学物質が分泌されたり分泌されなくなったりして人は「哀愁」という認識をします。ここまでは時間や費用を充分に掛ければ完全に解明できる自然科学分野の問題です。ところが最終的にキーとなる脳内物質が分泌された時に「なぜ人はそれを「哀愁」と認識するのか」は物質を分析して得られる知識ではありません。この分野の知識は自然科学でもなく哲学でもない知識の辺境地帯なのでしょう。

それよりも、他人の心の中にそのようなクオリアが出現したかどうかを客観的に調べる(本人による報告以外の手段で測定する)方法はあるのでしょうか? 全く音楽を理解しない人には音楽によるクオリアが出現しないのでしょうか? 音楽についてのクオリアが完全に解明されれば、優れた音楽を作り出す理論的なノウハウの重要な部分が得られるということでしょう。

この根本的な問いかけを研究する学問をなんと言うのでしょう? 今までに無い新しい問題であり、たくさんの人的物的資源を投入しても研究すべき課題ではないかと思います。この分野の第一人者は茂木健一郎という人です。私の文章も彼の文章の受け売りです。彼の重要な指摘を引用してみましょう。

『私たちの心の中の様々なクオリアに対応する物質的過程の性質を明らかにすることは、自然科学を従来の客観的視点に立った物理主義の科学から脱皮させるための最大のチャレンジである。様々なクオリアが結びついた表象が感じられる枠組みである私の心という主観性の構造がどのような物質系にどのような条件の下で現われるのかを明らかにすることは、客観的世界と主観的世界の間で分裂した私たちの世界像を整合的なものにする上で必要不可欠なステップである。 クオリアや主観性の起源の解明は、自然科学の問題として重要であるばかりでなく、人文的文化の究極的基礎を提供する。 クオリアは、今後の人類の知的挑戦における本質的課題を象徴する概念である。 日本には資源もないし、安い労働力もない。一方で、この島国の四季の移ろいの中で培われたクオリアに対する感性の伝統だけは確かにある。日本人が受け継いできたクオリアに対する感性を、高付加価値の商品、サービスの開発に生かす「クオリア立国」こそが、これからの日本の一つの生き方なのである。』

彼は物質的なプロセスがどのようにしてクオリアを形成するのかを解明しなければならないと言ってますが、なぜ物質的なプロセスの後にそのようなクオリアが出現するのかを解明する方がもっと重要で困難な課題だと思います。クオリアを原子物理学のように心的元素(たとえば快感、恐怖感)に還元して考えねばならないかも? うっう〜〜〜ん、・・・ややこし〜ぃっ!

私は若い頃にとても変わった趣味を持っていました。今ならオタクと呼ばれていたかも知れません。田舎の小さな軽便鉄道や地方鉄道、路面電車、汚い工業地帯の工場構内専用鉄道などを訪問してボロボロの車輌の写真を、雨漏りに悩まされていたような車庫で撮るのが大好きでした。埃、煤、灰、泥、油、錆、水溜り、破れたトタン屋根、剥げたペンキ・・・・・このような汚いものに潜んでいるナニカは美なんでしょうか?この趣味を始めた最初の頃はいろいろな車輌の写真を撮りためているコレクターでしたが、次第に車輌を取り囲んでいる郷愁を誘う光景を絵描きの目で見ていたのだろうと思います。南画や茶道具の美意識の世界に近いものを感じても画家や宗匠に失礼にはならないでしょうか?中世やルネッサンスのピッチが低くて素朴な古楽の世界に通じるものがあるのではないかと思ったりして・・・。他の喜び(古楽やアンティーク・オルゴールを聴いたとき)と比較しても同じくらいのインパクトがありました。私の心の中における鉄道のクオリアと古楽やアンティーク・オルゴールのクオリアには共通点があるのではないかと思っています。

哀愁を帯びたものを悲しく感じるのはなぜなのか・・・というよりも「哀愁」という概念がどのようにして心の中にできあがっていくのか?・・・が問題。これを言い換えると「美しいものはなぜ美しいのか?」=「自然界にあるなんでもないモノが、どのようにして人の心の中で美しいものに変化していくのか?」という問いになるのではないでしょうか? これがナニカを説明できたら、他の人達も私のクオリア(ここでは喜び)を共有できるのではないかと思ったりして・・・・・。

私が鉄(鉄道趣味のこと)の世界で「美?または魅力」を感じたモノの写真を例として掲載しますのでクリックしてください。でもね〜〜・・・並みの神経の持ち主の皆様に対してだったら・・・コンナ汚いものに魅力をね〜、どーゆーふーに説明したらいいんだろう??!    って言うか、変な趣味を持っていた私がマットーな市民に成長できたかということに疑義が生じるのではないかと。


軽便鉄道の駅

左の写真1は初夏の昼下がり、田舎の軽便鉄道のちっちゃな列車を待っている人達です。左奥の鄙びた駅舎と低いプラットホームが魅力です。

右の写真2は使われなくなった貨車を詰所にしています。車内の火鉢とヤカン、ぶら下がっている裸電球、ペンキのなんともいえないハゲ具合に注目。この頃田舎の鉄道の車庫で働いている人達はとても親切で、この火鉢でオモチを焼いてくれました。
貨車の詰所
軽便鉄道の蒸気機関車 左の写真3は車庫で保管されていた軽便鉄道の蒸気機関車。埃まみれの梁や桁、工具や部品が散らかっています。写真を撮るために油を注してからディーゼルカーで車庫の外まで引き出してくれました。





写真4は今から100年以上前に作られた蒸気機関車が一休みしているところです。すごい煤煙と石炭灰。
   
写真5は炭鉱の専用鉄道、不景気になって永いので線路に砕石を補充できなくて、まるで砂原にレールを敷設したように見えます。
   
写真6は製鉄所の構内専用鉄道、古い蒸気機関車がフォークリフト代わりにワイヤーロープで台車を引っ張ってます。

写真7は田舎電車の風情の有る車庫建屋、トタンで出来た壁がペカンペカンと風であおられていました。

写真8はその車庫の中においてあった貨物電車、トタン屋根が台風で吹き飛ばされたソーデス。

写真9は若松の市電、でも田舎なので貨物専業。列車運行はごく僅か、閑散としていました。

写真10は田舎電車の車庫をプラットホームから眺めたところ。

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